鬼ノ城と楯築遺跡で矢を打ち合った両者は、様々な生き物に姿を変え、最後に温羅は、吉備津彦に打ち取られてしまう。ところが温羅と吉備津彦の伝説はこれでは終わらない。セカンドストーリーとも言うべき話があったのだ。
打ち取られた温羅の首は、現在の吉備津神社(御釜殿)の地中深くに埋められた。そして温羅は、釜を使って世の吉凶を占い、この地に住む人たちに生きる道を示すと吉備津彦に伝えたのである。
それが、吉備津神社で行われている鳴釜神事というわけだ。
これはぜひとも体験せねばならん。
ということで、本殿から続く美しい回廊を通って、御釜殿へと赴いた。
「こちらにお座り下さい」
宮司の上西さんに促されてひとり釜の前へ。そこに座ると、なんというのだろうか。とにかく俗世から切り離され、全く違う時間が流れ出すのである。目の前には、いわゆるおくどさんのような釜が2つあり、赤い炎が釜を熱していた。視界に入るものすべてが、「今ここ」から参拝者を切り離す装置のように思えた。
室内は煤で黒く燻され、隙間から差し込む日差しが神々しく瞬いて、私を神妙な心持ちにさせてくれる。
神事が始まった。
釜にかけられていた菰(こも)が外され、朦々と湯気が立ち昇る中、玄米を入れた甑(こしき)が静々と入れられ、左右にゆっくり揺すられる。するとどうだろう。
「ぼうわわわわわ……」
と、突如、音が鳴り出すではないか。もう、びっくり仰天である。もちろん、そんなそぶりは微塵も見せては居ないが、心の中では「ほ、本当に音が鳴るんだ!」とひとり高揚していた。
それも束の間。
次第に音の響きが大きな球体のようになって身体をすっぽりと包んでくれる感じがした。ああ、きっと良いことがある。ほんの数分ではあるけれど、とても清らかで安らかな気持ちになる響きだった。
神事が終わり、上西さんに話を聞くところによると、音というよりも「波動」なのだという。団体で神事を受けていても、他の人には聞こえているのに、まったく聞こえなかったという人も居たりするらしい。同じ場所で同じように受けているにも関わらず、そんなことが起こるなんて。これぞ神事である。
玄米を鳴らしただけでは、普通あんなに大きくて包み込まれるような音にはならない。きっとその場に居る人の心の中にある「なにか」と共鳴しているのだと思う。実際に、私と一緒に受けた他の人とは感じ方が違っていたようだ。
鬼と呼ばれた温羅は、今でもこうして人々と共にあるのだな、そんなことを感じる鳴釜神事だった。
ところで、鬼ノ城で武田さんに言われた
「宝のないところに桃太郎は来ません」という話。あれは一体なんだったんだろうか。
もしかすると、古代の岡山、つまり、吉備と呼ばれた時代の痕跡を巡ると謎が解けるのかもしれない。
じゃあ、次は、古代の吉備を廻ってみることにしよう。
(つづく…)